【第1帖】桐壺(きりつぼ)【源氏物語あらすじ・解説】
光源氏の誕生から12歳までのお話です。
対訳にはなっていないのでご注意ください。
登場人物
帝(桐壺帝)、桐壺更衣(光源氏の生母)、弘徽殿女御(右大臣の娘で第一皇子の生母)、第一皇子、第二皇子(光源氏)、未亡人(更衣の母、光源氏の祖母)、高麗から来た人相見、藤壺女御(先帝の四の宮)、左大臣、左大臣の娘(のちの葵の上)
あらすじ
桐壺更衣
どの天皇の御代であったか、女御(にょうご)とか更衣(こうい)とか言われる人たちが大勢いるなかに、身分が高いわけではないものの深い寵愛を得ている更衣がいた。
帝の寵愛がひとりだけに深すぎることはあまり良くないと皆が思いつつも、周囲はどうすることもできない。
この更衣もまた既に父もなく、強い後ろ盾も無い身であるから、帝の寵愛にすがるしかないのであった。
前世の縁が深かったからか、美しい皇子までもがこの更衣から生まれた。
既に皇太子として申し分のない第一皇子は右大臣の娘である女御から生まれていたので、この皇子は第二皇子となる。
第一皇子は皇家の長子として大事にされ、第二皇子は愛子として大事にされた。
皇子を産んでからも更衣は帝が傍から離さないほどの寵愛を受けていたので、ややもすると第二皇子の方を皇太子にしてしまうのではないかと、第一皇子の母である女御が疑うほどであった。
更衣もまた、帝の寵愛が深くなればなるほど、心労が募っていくのであった。
第二皇子が三歳になった頃、袴着の儀が盛大に行われた。
皇子は類まれなほど美しく聡明で、誰もがこの皇子を悪く思ったりしないほどである。
皇子皇女を産んだ生母は御息所(みやすどころ)と呼ばれ、更衣もまた御息所と呼ばれるようになっていたが、この年の夏、御息所は体調を崩した。
五、六日の間に御息所たる更衣は重体となってしまい、宮中からの退出を許していなかった帝も退出を止めることが出来ないほどになってしまった。
そしてそのまま、更衣は亡くなってしまった。
更衣は「桐壺の更衣」と呼ばれており、位も更衣のままであった。そのことを帝も気にしていたので、死後に女御の位を贈った。
帝の悲しみはたいへんなもので、更衣や女御を宿直に召すこともなくなり、皆がしめっぽい秋を過ごした。
その様子に第一皇子を産んでいた弘徽殿(こきでん)の女御などは、更衣の死後もまだ嫉妬をするのであった。
更衣の実家には更衣の母と第二皇子が暮らしていたが、悲しみから家の様子はどんどん荒れていた。
帝は更衣の母たる未亡人と、皇子を御所へと呼び寄せることに決め使いを送ったが、未亡人の心中を思うと無理強いできるものでもなかった。
帝は悲しみにくれるばかりで日常生活もはりがなく、政務もおろそかになり、皆が眉をひそめるようなありさまであった。
また弘徽殿の女御のふるまいも、周囲や帝の神経を逆なでするものであった。
父帝と第二皇子
数か月後、第二皇子は宮中に戻ることになった。
翌年の立太子には、帝は第二皇子を東宮に立たせたいと思っていたが、後見人などもない若宮の将来を考えると難しいものであった。
東宮となったのはやはり第一皇子であった。
このことで気落ちしたのは第二皇子の祖母である未亡人で、少しして亡くなってしまった。
このとき若宮は六歳で、祖母の死を理解して悲しんだ。
若宮が七歳になると、書始め(ふみはじめ)が行われて学問をするようになった。帝もときに驚くほど、非常に聡明であった。
学問にも音楽にも優れ、非常に美しい若宮は、あの弘徽殿の女御も愛でずにはいられないほどで、女御の産んだ姫君たちともよく遊んだ。
その頃、帝が高麗から来た人相見にひそかに皇子を見せたところ、「国家の最上位に立つ相であるが本人にとって幸せな道ではない」というような占断を得た。
若宮の幸せを願っていた帝もまたこの答えに納得をし、若宮には元服後「源(みなもと)」姓を名乗らせ、臣下とすることを決めたのである。
藤壺女御
何年が経っても、帝は桐壺の更衣を忘れることが出来ずにいた。
あるとき、先帝の内親王のひとりが桐壺の更衣によく似ているという話を聞いた帝は入内を打診してみた。
かつての御息所が受けた仕打ちを知っていた内親王の母が反対したため、その話は有耶無耶になってしまっていたが、のちに内親王は入内をすることになる。
内親王が与えられた御殿は「藤壺(ふじつぼ)」。
たしかに、桐壺の更衣に何もかも良く似ている姫君であった。
帝は藤壺の女御を寵愛し、宮中にはかつての明るさが戻ってきた。
元服する「光の君」
若宮はその頃「光の君(ひかるのきみ)」と呼ばれており、帝にいつもくっついていたので、自然と藤壺の女御のもとへもよく出向いていた。
母と似ていると言われる女御に、光の君は会いたいとも思っていたし慕ってもいた。帝もまた、藤壺の女御に若宮のことを頼んでもいた。
この頃には藤壺の女御へと帝の寵愛が向いたことから、弘徽殿の女御は藤壺の女御に嫉妬をしていたし、若宮に対しても再び良い感情を持たなくなっていた。
そして、十二歳となり、若宮は元服をした。源氏の君となり、理髪と加冠などが行われた。
加冠を行った大臣には娘がいた。もとは東宮から後宮へと望まれた娘であったが返事していなかったのは、もとから源氏の君に嫁がせたいと考えていたからである。
帝もその結婚を承知し、その夜、源氏は左大臣家へと婿になって行った。
だが源氏の心には藤壺の女御がいた。元服したのでもう御簾の内に入って会うことは出来ないが、御所にいるときはその声や楽器の音を聞きたくてたまらなかった。
御所に泊まる日の方が多く、左大臣家に行く日は少なかったが、源氏の若さを思い左大臣も特に何も言わなかった。
源氏には桐壺の更衣が使っていた部屋がそのまま宿直所(とのいどころ)として与えられており、更衣の実家も立派に改築されて「二条院」と呼ばれる邸宅となっている。
源氏は「こんな気に入った家に理想の妻と住めればいいのに」と考え、ため息をつくのだった。
補足
藤壺の女御は先帝の四女(女四の宮)で、入内時16歳だったとされています。
光源氏よりも5歳ほど年上となります。
また、光源氏と同時期に、左大臣の長男(のちの頭中将)は右大臣の娘(四の君)と結婚をしています。