”後朝の文(きぬぎぬのふみ)”とは
「後朝」は「きぬぎぬ」と読みます(「ごちょう」と読むこともあります)。
多くは「後朝の文」「後朝の歌」という風に使われ、男女が契りを交わした翌朝、男が女に送る手紙のことを「後朝の文」と呼びます。
「後朝の文」とは
平安時代は「通ひ婚(かよいこん)」で、男性は日が暮れてから女性のもとへと通い、逢瀬(あふせ・おうせ)を交わしました。そして夜が明ける前に、男性は帰宅します。
帰宅後に男性は女性に文を送るのが慣わしで、その手紙が「後朝の文(きぬぎぬのふみ)」、添えられた歌が「後朝の歌(きぬぎぬのうた)」と呼ばれるものです。
「後朝の文」は、なるべく早く出すのが当時のマナーだったようです。
また、後朝の文を届ける使者のことを「後朝の使ひ(きぬぎぬのつかい・ごちょうのつかい)」と呼びます。
なぜ「きぬぎぬ」と呼ばれるのか
別れ際に、脱いで重ねてあったお互いの着物も別れ別れになってしまうことから「衣衣=きぬぎぬ」や「後朝」と表現されるようになりました。
当時は現代のような布団や掛け布団はありませんでした。身分の高い人でも、畳のようなものの上にせいぜい敷物を敷いてから直接寝て、上は普段着ている着物をかけることで、掛け布団のようにしていたのです。
『源氏物語』「末摘花」巻
なるべく早く出すのがマナーの「後朝の文」ですが、源氏は末摘花と初めて結ばれた朝、帰宅してすぐに手紙を送っていません。なんと、夕方に出したようです。それでもちゃんと出しているだけ、源氏としては真面目な対応です。
末摘花の身分が高かったので、源氏も一夜限りの関係とすることは出来なかった模様。でもなんだかんだで、源氏は末摘花をずっと世話し、愛着も持っているようです。
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「百人一首」にも残る”後朝の文”の歌
「百人一首」にも後朝の文から採られた歌が載せられています。
43番歌は「後朝の歌」として一般的に分類されていますが、藤原定家は「切ない恋の歌」として解釈していたようです。