小倉百人一首

87番歌 むらさめの(寂蓮法師)

村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ

らさめの つゆもまだひぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆふぐれ

建仁元年(1201年)2月に後鳥羽院によって催された「老若五十首歌合」で詠まれました。

一字決まりの七首「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」のひとつです。

主観を交えずに自然を客観的に表現した「叙景歌」にあたります。

現代語訳

通り雨に濡れそのしずくもまだ乾ききらない真木の葉に、霧が立ちのぼっている、秋の夕ぐれだなあ。

「村雨」は通り雨やにわか雨のことです。「まき=真木」は、杉や檜など、山林に生える大木のことです。

小さな葉にまず焦点をあて、そして次に周囲全体を見渡したかのように霧が立ち上る山の風景が広がっていきます。そして最後に「秋」が示される。

葉が露に濡れたままの大きな木々が生い茂っている、薄暗くてひんやりとした山の風景が目の前に浮かび上がってくるかのような歌です。

特徴

またこの歌の特徴として、「秋」なのに「紅葉」ではなく「緑の葉」を使用している点が挙げられます。色鮮やかな「紅葉」ではなく「緑の葉」を使用することで、しんと静まり返った山奥の雰囲気が強調されているように感じます。

参照すべき歌

この歌より以前に寂蓮法師が詠んだ歌に、

寂しさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ(『新古今和歌集』秋上・三六一)

があり、「寂しさ」に色は関係なく、真木が生い立つ山の秋の夕暮れは寂しい、としています。

「叙情歌」と「叙景歌」

主観的な感情を詠む「叙情歌」に対して、客観的な自然の景物を描写した「叙景歌」。

日本では『万葉集』の時代から自然に対する関心は高く、自然の景物が作者の感情を表現していることも多いです。

「叙情歌」では直接作者の感情が表現されていますが、「叙景歌」では描写された自然の景物をとおして作者の感情を読み取ることができます。

そして歌を聞いた観客は作者の感情を共有することで、作者に共感して自らの感情や心が動かされます。

表現されたものを通じて観客の心が動かされるという点で、「叙情歌」と「叙景歌」は対照的なものでありながらも共通性があると言えます。

作者:寂蓮法師(じゃくれんほうし)

12世紀中ごろに生きた人です。

藤原定長のことで、定家とは従兄弟どうしにあたります。

独鈷鎌首(とっこかまくび)論争

「六百番歌合」のとき、顕昭(けんしょう)が独鈷を手に持ち、寂蓮が鎌首のように首をもたげて歌の論争をしたそうです。

独鈷(とっこ)↓

その様子を左大将藤原良経家の女房たちが「例の独鈷鎌首」とはやしたことから、議論好きの歌人のことを指して「独鈷鎌首」と言うようになりました。

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